私たちは、本当に子供みたいだった。ほかの別荘が数軒立ち並ぶところまで来ると、管理事務所と広場があり、いくつかの遊具が置かれていた。
彼は長い枝を探してきて、砂の上に字を書き始めた。 『影野夕李』 縦に並んだ四文字は、宝石のように綺麗。一番星が見えてきそう。あなたの名前?と聞くまでもなかった。彼は照れ臭いのを咳払いでごまかすようにして、私にも書けと目で促した。どこへ書こうかと一瞬考え、隣に並べることにした。 『天霧鈴』 天と夕、影と霧。晴れた空に薄雲がかかり、その中でかすかに鈴が鳴っているような、私たちの名前。勝手にロマンチックな想像をして楽しんだ。 「天霧……すずさん、でいいのかな」 「あ、いえ。リンと読むんです」 「それは失礼」 「ふふ、『すず』もかわいいですね」 「では、そう呼んでも? 僕だけ特別に」 即座に頷くことができない理由を、彼は誤解した。 「さすがに、馴れ馴れしかったかな」 「違うんです。そうじゃなくて……」 枝を地面に落とし、赤いベンチに腰かけた。隣に座った影野さんに、これ以上誤解させたくない。ゆっくりと、事情を離した。 「私、記憶がないんです。事故に遭って……意識不明で。目が覚めたのは、今年の三月の半ばでした。自分の名前も、家族のことも、何も……」 「落ち着いて。わかったよ、わかったから。無理に話さなくていい」 「大丈夫……話そうとしても、わかっているのはここまでなんです」 彼は水筒のコップを外し、水を飲ませてくれた。 「ありがとうございます」 体中に染み渡る水。影野さんに打ち明けることが、これほどまでに緊張を伴うものだとは思わなかった。記憶喪失だから、私をすずと呼ぶ人がほかにいるかどうかもわからない。影野さんは特別だと頷きたいのに……。 私の思いを、彼は読み取ってくれた。 「今のあなたにとって『特別』でいられるなら、僕はそれでいい」 「ありがとうございます。じゃあ、『すず』で」 心の中で、チリンと鈴が鳴った。 影野さんは水をもう一杯注いでくれて、鞄から予備のコップを出し、自「リン、食事の支度ができたよ」 低く、穏やかな声が私を呼ぶ。「はい、今行きます」「こちらへ運ぼうか?」 戸口から姿を現したのは、従兄の天霧晧司さん。今日も優しい笑顔。「いえ、大丈夫です。今朝はとても気分がいいので」 本心からそう言ったのに、彼は心配そう。部屋の中へ静かに入ってきて、身支度を済ませた私を眩しげに見た。「今日は本当に調子がいいんです。洗顔も着替えも、途中で休むことなく済ませることができたんですよ」 クローゼットから、服を選ぶ余裕もあった。薄い緑色のサマードレス。「それはよかった。しかし、一度に動き過ぎてはいけないよ」「晧司さん、本当に過保護ですね。もうじき、あれから四か月にもなるんですよ」「まだ、四か月だね。正確には3か月半だ」 背を支えてくれる手。私がよろけたり、呼吸が苦しくなったりしないかと、注意深く見守る目。私より十五センチほど背が高くて、すらりとして逞しい。安心して寄りかかれる。長い足は、一人では速足なのに、私と歩く時は歩幅を合わせてくれる。顔を上げると必ず目が合うのは、いつも私を見ていてくれるから。 私の居室を出て、彼の寝室の前を通り、リビングへ。明るい朝日が差し込み、コーヒーのいい香りが漂っている。「今日もいいお天気」「梅雨明け宣言はないが、今年は早いのではと予想されているね。光で目が痛くはないかい?」「ええ。目は何ともないんですもの。……あ」「うん?」 晧司さんは私の視線を追った。リビングの階段を降りると、その先は『大きなリビング』。湖の上に張り出したテラスへと続く、この別荘の中でもとびきり素敵な場所。「テラスまで降りたい?」 遠慮がちに頷いた。駄目って言われるかな。でも、キラキラ光る水面を見ながら、晧司さんのおいしいお料理を食べたいな。 彼はちょっと思案してから、フッと笑った。わ、かっこいい。 見とれている間に、ふわっと抱き上げられた。お姫様抱っこ。緩くまとめたロングヘアが彼の腕にかかる。「晧司さん?」「では参りましょうか、姫」「え、あの……」「しっかりつかまって」「あ……はい」 おずおずと、肩に手をおいて首に手をまわす。病院からここへ移ってきた時も、ほかの時も、何度もこうして抱っこされた。そのたび、私でいいのかなっていう気持ちになる。十も年上の、よくは知らないけど大変な資産家だ
『大きなリビング』からテラスへと出られる窓は、開け放たれていた。半分だけ屋根がある広いテラスには、朝食の支度が整っている。晧司さんは、柔らかな椅子に私をそっと下ろした。彼は、向かい側ではなく私の右隣。 七月上旬の光は強いけれど、適度に日陰ができる造りなのであまり気にならない。水面を渡るそよ風は涼気を含んでいる。 「気持ちいい……」 ほぅ、と息をついて、コーヒーのポットに手を伸ばした。晧司さんのカップを引き寄せ、ゆっくり注ぐ。彼は何か言いかけたけれど、黙って待ってくれた。ん……重いけど、大丈夫。ポットを置くと「ありがとう」と温かな声。彼はお返しにと、私にカフェオレを作ってくれた。飲み物がそろったところで、食事が始まった。 「いただきます」 「いただきます。……どうかな?」 「おいしいです、とっても!」 フレッシュな野菜とハムのサンドイッチ。チキンサラダに、私が好きなゆで加減の卵に、コーンスープ。どれも素材の味が生きている。 「握力も食欲も、もうほとんど元通りだ。よく頑張ったね」 「晧司さんのおかげです。私が目を覚ましてから三か月、毎日リハビリに付き添ってくださって。その前も、退院してからも、こんなに……本当にありがとうございます」 「私は、自分がしたいからしているだけだよ」 彼は、私が眠り続けていた三か月の間も、親族としてめんどうを見てくれた。寝たきりで低下していた筋力が順調に回復してきたのも、彼が毎日、献身的に世話をしてくれたからだと、お医者様から聞いている。腕も足も、弱らないようにと少しずつ動かしてくれていた。毎日、毎日……。事故で意識を失い、一向に目を開けず、一生そのままかもしれないとさえ言われた私のために。 どこからともなく意識が浮上し、自分が何者なのかもわからず、混乱して縋るように目を開けた時、彼の手が私の指先を包んでいた。驚いて目を見開いた彼が「リン……? 私だ。わかるか? リン!」と呼んだ。それで、私は自分の名を知った。あの瞬間から始まった三か月と半月が、私の記憶のすべて。 意識を取り戻した私は、彼の瞳に浮かんだ光を打ち砕いてしまった。声は出なかったけれど、唇が「誰?」と動いた。「……自分の名は? 姓は」と震える声で聞かれ、答えられなかった。リンは鈴と書くことも、姓が天霧であることも、父方
天霧鈴、二十七歳。十二月二十一日で、二十八歳を迎える。 今、わかっていることはそれだけ。職業も、元の住まいも、晧司さん以外の身内の存在も、一切知らされていない。先入観なく自分で思い出せるのならその方がよいから、と言われている。 あの日、お医者様に呼ばれた晧司さんは、「すぐ戻るよ」と私の手を握った。彼の体温だけが、この世で唯一、確かなものに感じられた。ほかに私を知っているという人が現れる様子もなく、看護師さんが何度か出入りした。自分が点滴だけで生かされてきたこと。それは、かなり長い期間であること。少しずつ状況がわかってきた。 病室は特別室で、晧司さんは親族用に仕切られた小部屋で寝泊まりしていた。昼間は私のそばを離れなかった。ノートパソコンを操作したり、誰かと電話で話したりしている時も、私が起きると中断して世話を焼いてくれた。「大事なお仕事の最中なのに」と遠慮すれば、決まって「君の方が優先事項だ」と返ってきた。 最初は眠っている時間が多くて、疑問をぶつける余裕なんてなかった。その時期が過ぎると、だんだんと普通の食事をとれるようになり、リハビリも始まった。病室の外へ出るようになると、思考が働く時間も増えてきたけれど、自分の家族や境遇について、誰かに聞いてみることはしなかった。 リハビリも特別室専用ルームを使っていたから、私の疑問に答えてくれるような人と会うチャンスは少なかった。それに加えて、だんだんとわかってきた自分の性質。物事をじっと観察する癖があり、基本的に、人と話さず結論を出す。お医者様も、「それは病状ではなく、持って生まれた性格というものでしょうね」と請け合った。隣で聞いていた晧司さんの、私の肩に置かれた手が震えた。目に涙をためて、何度も頷いていた。 ――ああ、この人は私をとてもよく知っているんだわ。 そう直感した。 天霧晧司、三十八歳。手広く事業をやっている。穏やかな物腰の中に、私には見せない鋭いナイフを隠し持っている。それでなければ、漏れ聞こえてくる幅広い事業展開は不可能。詳細を調べようとは思わないけれど、彼の背景を想像するのは密かな楽しみ。左手の薬指に残る指輪の跡は、理由を考えようとすると脳が拒絶反応を起こすけれど……。 寝ても覚めても、彼が私の、一番の観察対象。だから、「病院を出て、空気のいいところでゆっくり暮らしてみない
退院するまで、ついにほかの親族と会うことはなかった。 別荘へ移ったのは、六月中旬のよく晴れた日。それまでは梅雨らしく、雨が降り続いていた。 時間がかかるからと、私が横になれる車が用意され、運転手は晧司さんの古い知り合いだという男性が務めた。春日雷斗と名乗った四十歳くらいの彼は、どこか、時代劇で殿様にお仕えする忍びのように思えた。晧司さんは、「当たらずといえども遠からず、だな」と笑った。 途中、何度か休憩を入れながらたどり着いた山中。開けた場所に広がる広大な湖。そのほとりに佇む瀟洒な建物は、初めて見るのにどこか懐かしく感じた。 出迎えてくれたのは、私と同じくらいの年頃の、きりっとした雰囲気の女性。名前は明吉七華さんで、第一印象はくノ一。近寄りがたい美貌の持ち主だけど、私には親しみ深く笑いかけ、自己紹介をしてくれた。彼女は春日さんとともに、晧司さんに深く一礼し、私たちと入れ替わりに車に乗り、去っていった。「さて」 晧司さんは、私をさっと抱き上げた。荷物はすでに、中へ運び込まれている。「疲れただろう」「少し……でも、大丈夫です」 完全に、周りに誰もいない状態で彼と二人きり。病院は病室の外へ出れば大勢の人が働いていたし、ほとんど会わなかったけれどほかの患者さんもいた。毎日優しく励ましてくれたお医者様も。 ――今、本当に晧司さんと私だけなんだ。 わかりきっていた事実。開放的な外の世界へと出てきたのに、私は新たに閉じ込められようとしている。そんな考えが頭をよぎったけれど、彼の深い笑みに狂気や暗さは全く混じっていない。この人を信じる。信じたい。祈るような気持ちで、彼の肩につかまった。 舗装されていない道路から玄関までは、なだらかなスロープ。七華さんが半分開けておいてくれた扉の中へと足を踏み入れた彼は、甘い声で囁いた。「ようこそ、お姫様」 お、お姫様って。 咄嗟に返す言葉が出てこなくて、訳もなく恥ずかしさが込み上げる。彼はクスッと笑って私を静かに下ろし、上がり框に腰掛けさせた。病室で履かせてくれた靴を、今度は脱がせていく。「あの……自分で、脱げます」「わかっているよ。だが君は、この城の女主人だからね。かしずく者には素直に甘えているといい」 お姫様ごっこを続けるつもりらしい。彼の仕草には、従兄としての優しさだけでなく、恭しさもこもっている。「
晧司さんは、間取りを説明しながら私を運んだ。建物は横に長くて、玄関から伸びる廊下の右側には寝室が二つ。晧司さんのものと、奥は私のために用意させたという。廊下の左側には、晧司さんの書斎と、ゲストルームとしても使える和室。これらの四つの部屋の入口は、途中で左右に分かれて伸びる廊下に面している。 左右のどちらにも折れずまっすぐに進むと、右手にお風呂やトイレ、左手にキッチンを見ながら、リビングに出る。キッチンの向こうには、和室と向かい合う位置に洋室のゲストルームがある。ダイニングとほぼつながった形のリビングからは、光り輝く湖を一望することができる。 「素敵……」 感嘆のため息を漏らす。ここで過ごしたら、本当に、もっともっと元気になれそう。 彼はリビングで足を止めることなく、前方の階段へと進んだ。 「この別荘から見える、一番いい景色を見せてあげよう」 その言葉は、誇張でも自慢でもなかった。もうひとつのリビングからテラスへと出て、手すりのところまで連れていってもらった。彼の腕の中から見る世界の美しさに、言葉を失った。果てがないかのように思える湖。緑豊かな山々。おいしい空気。時々、澄んだ鳥の歌声が天空へと昇っていく。 ずっと私を抱えている晧司さんは、重そうな素振りを見せることもなく、息を飲んで見とれる私に付き合ってくれた。 「君は、ここにいるんだ。私と一緒に。いいね?」 鳥の声にかき消されてしまうそうな小さな声。わずかに震えている。私が生きていること、共にこの景色を見ていることへの喜びと……仄見える執着。けれど、不快感や恐怖は感じない。彼が私に世界を教えてくれるなら、私の居場所はここ。 返事をしたら、後戻りはできない。私は、自分の決断を信じて「はい」と答えた。 そうやって始まった、蜂蜜のように甘い生活。恋人のように愛されているわけではないけど、ほかに表現のしようがない。何か記憶の手掛かりがないかと、三か月半の出来事を振り返るたび、私はおとぎ話に迷い込んでいるんじゃないかと疑いたくなる。 入院中、映画の配信サービスを観るためだけに与えられた端末で、いろいろな映画を観た。それぞれを初めて観るものとして認識したけれど、以前の私が観たものもあったのかもしれない。昔ながらの童話を下敷きにした作品は、もとになった話の筋を覚えていた。その点につ
夢を見た。 暗くて寒い。誰かが私の肩を強くつかんだ。恐怖が背筋を駆け抜ける。駄目。叫んではいけない。嫌悪と絶望と、覚悟。唇を強く噛んだ時、大きな音と怒号が響いて――凄まじい咆哮。意識が白く染まっていく……。「リン」 「……あ」 温かい声が私をくるむ。夏の布団の上に突っ伏して、その一部をぎゅっと握り締めて眠っていた。肩にふわりと掛けられたのは、紫色のブランケット。 「晧司さん……」 「指を噛んではいけないな。傷になる」 言われて気付いた。私は、おそらくは夢の中の恐怖に堪えるため、自分の人差し指を強く噛んでいた。歯型が付くほどに。 「怖い夢を見たのかな」 私の手を大きな手で包み、ブランケットごと抱き起こすと、彼は目尻の涙を拭ってくれた。 「はい……怖かったっ……」 誰がいたのか、どこにいたのかはわからない。ただ、恐ろしかった。晧司さんに抱き寄せられ、胸に縋って泣き、ようやく安全な現実を認識した。 「勝手に入ってきてすまなかった。様子を見にきたんだが、気配が気になってね」 「いいんです……」 しっかりとつかまえていてくれる手。髪を撫でて、何度も「大丈夫だ」と言ってくれる。 「晧司さんっ……」 あれが記憶の一部なのだとしたら、思い出したくない。ただの夢であってほしい。 「大丈夫だ。君は勇敢でまっすぐで、美しい。何者も、君が君らしく生きるのを止めることはできない……」 「私、らしく……」 「ああ、そうだ」 涙が引いていく。鼓動が、通常の速さに戻ってきた。 「晧司さんは……私らしい私を知っているの?」 「そのつもりだ。尤も、よく驚かされたものだが……それも含めて、君らしいと思っているよ」 私にとって、記憶の手掛かりとなる言葉だ。入院のきっかけは、事故だと聞いている。外傷はほとんどなかったから、深い眠りは、ショックを受けた心身を回復させるためのものだったというのが、お医者様の結論。事故の内容は伏せられている。 夢で私は、怖くてたまらないのに助けを求めなかった。何か、やらなくてはならないことがあった……? そ
晧司さんに髪をとかしてもらい、念のためと抱きかかえられて、二人を迎えるため自室を出た。彼は私の髪に触れるのが好きで、ブラッシングが自分の仕事であるかのように熱心。それは何かの行為の代わりに感じられて、すぐに人と会うのは恥ずかしい……。 「私以外の者に、そんな顔を見せてはいけないよ」 リビングへと歩きながら、腕の中の私をたしなめる晧司さん。 「そう言われても……」 ソファーに下ろされ、スカートを直す。彼は床に片膝をついて、私の左手を握った。薬指の付け根を、何度もなぞる。 「ほら、その目だ。つかまったら、抜け出せない……」 晧司さんの眼差しこそ、吸い込まれて閉じ込められてしまいそう。彼の真意がわからない。日本はいとこ同士でも結婚できるけど……。 その時、インターフォンが鳴り響いた。一回、二回鳴ったあと、五秒後にもう一回。春日さんと七華さんの合図だ。彼らは合鍵を持っているけれど、「来ましたよ」と知らせるために合図を決めている。張り詰めた空気が溶けていく。立ち上がった晧司さんの手をつかみたい衝動に駆られた。 「リン?」 「あ……」 見下ろす瞳は曇りなく澄んでいて、私に危害を加える人物とは思えない。夢の中の恐怖が、無意識へと押し込められた記憶の一端だとしても、私に乱暴を働いたのは別の人物。そう思いたい。信じたい。あなたは私を、無理やり自分のものにしようとする人じゃない、って。 そうよ、あれはただの夢――。「おはようございます。……リン様?」 入ってきた七華さんが、心配そうに私を呼んだ。 「おはようございます、七華さん、春日さん」 「ご気分が悪いのでは? 奥でおやすみになりますか?」 「ううん、おしゃべりがしたくて待ってたの。今日は少しお手伝いもしたくて」 七華さんは私を注意深く観察し、晧司さんをちらりと見た。彼は小さく頷いている。寡黙な春日さんも、口には出さないけれど心配してくれているのがわかる。 「うたた寝して、怖い夢を見ただけ。動けば忘れます」 「では……そうですね、持ってきた食材を下ごしらえするのを、ご一緒によろしいですか?」 「ええ」 新鮮なお肉やお魚を手順通り調理していくのは楽しい。 「記憶を失っているのに、こういうことは体が覚えているみたい」 「記憶喪失にも、いくつか種類がありますから」 男性陣
春日さんと七華さんは、週に数回やってくる。私に付きっきりの晧司さんに代わって買い物をしたり、家中のお掃除をしてくれたり。外界と隔絶された生活は、二人のおかげで成り立っている。お昼前に来て、昼食を共にする。夕方からは、また晧司さんと二人きり。 私は病院でのリハビリに代わるものとして、別荘の周りを無理のないペースで散策している。七華さんがついてきてくれる時は、女同士の内緒話ができて楽しい。この日も、口には出さないけれど心配そうな晧司さんを残して、二人で散歩に出た。「お顔の色がよくなって安心しました。今日はたくさんお手伝いいただいて、ありがとうございました」 「あまり邪魔にならなかったのなら、いいんだけど」 「大助かりでしたよ。社長も嬉しそうに見守っておられましたね」 彼女と春日さんは、晧司さんの会社の社員という形で働いている。だからあの人を「社長」と呼ぶ。もっとも、二人は特殊な位置付けで、必要に応じて縦横無尽に動ける立場であるらしい。 「嬉しそうというか……目を離してくれない」 私を瞳にとらえると、ずーっと追ってくる。 「そうですね」 彼女は、クスクス笑ってる。 「私、そんなに頼りなくて危なっかしいのかな」 「その反対です。正反対です」 美しく整い、いつでもきりっと気持ちのよい緊張感を放つ七華さんの顔が、くしゃっと崩れた。木の枝を弦に音楽を奏でる、柔らかな風のような笑い声。 「……以前の私の性格を、大体察しました」 頼りないわけでも、危なっかしいわけでもない。おとなしいわけでもなかったのだと思う。今は不安もあって、慎重に日々を過ごしているけれど。 「すると晧司さんが心配しているのは、私が元気になるにつれて何かやらかすのではという……」 そっちの方だったの? 七華さんは、否定してくれない。にこにこ頷くだけ。 「あー、何したんだろう私……」 反省しようにも、材料となる記憶がない。謝ろうにも、何について謝ったらいいのかわからない。でも、これだけは言える。 「これからはあまりご心配をかけないようにします……努力します」 「はい。努力は大事です。心がけがあるとないとでは、だいぶ違ってきますからね」 姉のようにたしなめる口調は、容赦がなくて温かい。それでまた察した。 「もしかして今の言葉、すでに言ってました?」
私たちは、本当に子供みたいだった。ほかの別荘が数軒立ち並ぶところまで来ると、管理事務所と広場があり、いくつかの遊具が置かれていた。 彼は長い枝を探してきて、砂の上に字を書き始めた。 『影野夕李』 縦に並んだ四文字は、宝石のように綺麗。一番星が見えてきそう。あなたの名前?と聞くまでもなかった。彼は照れ臭いのを咳払いでごまかすようにして、私にも書けと目で促した。どこへ書こうかと一瞬考え、隣に並べることにした。 『天霧鈴』 天と夕、影と霧。晴れた空に薄雲がかかり、その中でかすかに鈴が鳴っているような、私たちの名前。勝手にロマンチックな想像をして楽しんだ。 「天霧……すずさん、でいいのかな」 「あ、いえ。リンと読むんです」 「それは失礼」 「ふふ、『すず』もかわいいですね」 「では、そう呼んでも? 僕だけ特別に」 即座に頷くことができない理由を、彼は誤解した。 「さすがに、馴れ馴れしかったかな」 「違うんです。そうじゃなくて……」 枝を地面に落とし、赤いベンチに腰かけた。隣に座った影野さんに、これ以上誤解させたくない。ゆっくりと、事情を離した。 「私、記憶がないんです。事故に遭って……意識不明で。目が覚めたのは、今年の三月の半ばでした。自分の名前も、家族のことも、何も……」 「落ち着いて。わかったよ、わかったから。無理に話さなくていい」 「大丈夫……話そうとしても、わかっているのはここまでなんです」 彼は水筒のコップを外し、水を飲ませてくれた。 「ありがとうございます」 体中に染み渡る水。影野さんに打ち明けることが、これほどまでに緊張を伴うものだとは思わなかった。記憶喪失だから、私をすずと呼ぶ人がほかにいるかどうかもわからない。影野さんは特別だと頷きたいのに……。 私の思いを、彼は読み取ってくれた。 「今のあなたにとって『特別』でいられるなら、僕はそれでいい」 「ありがとうございます。じゃあ、『すず』で」 心の中で、チリンと鈴が鳴った。 影野さんは水をもう一杯注いでくれて、鞄から予備のコップを出し、自
「過保護になりすぎて、君を私に依存させはしまいかと……これでも一応、気にしていたんだよ。記憶がなくても、やはり君は君だな。思うままに進んでいく」 彼はもう一度「よかった」と言い、涙ぐんだ。 私は自分の間違いを悟った。一番近くにいるつもりで、一体彼の何を見ていたんだろう。私のよさを損なうまいと願いながらも、閉じ込めてしまっていたこと。晧司さんには晧司さんの事情があり、そうせざるを得なかった。心配でたまらないはずなのに、私が腕の中から飛び出すことを喜んでくれる。 おかしなもので、こうなると、甘えて彼の巣で眠っていたい気持ちが生まれてくる。けれど今度は、彼がそれを許さない。 「君は冒険家だ。誰にも止められない。ただし、約束してくれないか。その日の出来事のうち、何かひとつは私に話してくれること」 「ひとつでいいんですか?」 「秘密にしたいこともあるだろうからね。……おや。子供みたいだな」 思わず、抱きついていた。何て素敵な人! 「約束します。晧司さんに話したいこと、たくさん見つけてきます」 「ひとつでいいと言っているのに」 抱きしめてくれた晧司さんの声は嬉しそうで、この先何が起きても、何を思い出しても、絶対に百パーセント、彼を信じると決めた。 次の日、私は意気揚々と出かけた。アポロンが今日もこの辺りまで来る保証はない。住んでいる家も知らない。 「いずれまた、とは言ってたけど……」 一か月先かもしれない。一年先かも。 「ううん、きっと……」 彼も、私を探しに来る。その予感は、的外れではなかった。 昨日会った場所から少し下ったところで、のんびりと景色を楽しみながら登ってくる彼と出会った。昨日と同じで身軽な服装。優しい色合いは、私が今日選んだ、クリーム色に小花の刺繍が施されたワンピースと対になっているかのよう。 「こんにちは」 「こんにちは。今日もこちらのルートなんですね」 「ええ。二日続けて幸運に恵まれるかどうか、試してみたくなりましてね」 昔からの知己であるかのように微笑みを交わせば、知り合ってからの時間など問題ではなかった。彼が昨日見つけたという
「時間を忘れて本を読んでしまいました」 「それだけ元気になってきたということだね。本を読むのは根気がいるから」 にこにこと言葉を返してくれる従兄は、目の下に疲れが見える。食べる手を止めて、右隣の彼の頬に手を伸ばした。 「晧司さんこそ、お仕事のしすぎでは?」 「構ってくれるかわいい子がいないとね、頑張りすぎてしまう」 言われてみれば。ここへ来てから、自分の部屋に籠もりきりで夕食まで過ごすのは、今日が初めてだった。 「ごめんなさい。こんなにお世話になっておきながら、少し動けるようになった途端、自分のことばかりで」 彼の手が私の手に重なった。 「いいんだよ。君はもともと……ふふ」 思い出し笑い。気になる。私が、おとなしい人間ではないと知ってしまっただけに。 「もともと、何ですか?」 「夢中で何かをしている時が、一番かわいい」 「詳細は秘密?」 「すまない」 「ううん。大丈夫です」 期待通りの答えはもらえないけど、もう焦らないと決めている。あなたを笑顔にできる私の思い出、必ず取り戻しますから、待っていてください。 そのためにも、あのアポロンと接触したい。さて、どう切り出したものかしら。 チャンスは、二人で夕食の後片付けをしている時に訪れた。お皿を洗い終わった彼が、「それで? 今日は大変な宝物を見つけた!という顔で帰ってきたのに、まだ教えてくれないのかな?」と尋ねてきた。聞いてうるさがられるのもいけないから我慢していたけど、気になってもう我慢の限界だよ、と顔に書いてある。 私は布巾を広げて干し、エプロンを外した。まどろっこしい言い方はやめよう。 「明日から……一人の時でも、長い散歩をしてもいいですか? 私の中の、宝箱の鍵が開くかもしれないの」 彼の目の届く範囲を外れて、一人で歩きたいという意味だ。 驚いて、問い質すか。悲しそうに微笑むか。抱きしめて、思いとどまらせるか。彼の反応はどれでもなかった。私の両手を取り、「よかった」と言った。
次から次へと考えてしまうのは、よほどあの青年が気になるのか……実は私の前に現れた二人目の身内だとでもいうのだろうか。 「生き別れになった双子の片割れ……なんてね」 思いつきを呟いて、自分で笑ってしまった。双子って、それこそアポロンとアルテミスじゃないんだから。 途中まで読んだ一冊目の表紙には、ギリシャ神話の太陽神と月の女神が描かれている。二人とも意志が強く、怖いものなどなさそう。今開いているのは、関連することが書かれている別の本。ギリシャ神話の世界を、すべて現実の事象として説明しようと試みている。ページをめくると、鉛筆で直接、細かい字が書き込まれていた。 「あ……また」 誰かが読んで、考えた足跡。私が今、正に引き込まれた箇所に、私の思考を写し取ったかのような言葉で書かれている。しかも、この字。 「私の字……だよね」 急いだり夢中になったりすると、細く、小さくなる。前に本を借りた時にも見かけた。その時は、仲のいいいとこ同士なら本の貸し借りをしていても不思議はないよねと、無邪気に思っただけだった。今はそうはいかない。 「おかしいでしょ……」 ここは晧司さんの別荘で、本は晧司さんの寝室から借りたもの。私の持ち物なら躊躇なく書き込むだろうけど、借りた本にそういうことはしないと思う。せいぜい、付箋を貼るに留めるだろう。 では、本は私の所有物だったのか? 記憶がなく管理が難しい私の代わりに、晧司さんの部屋に置いてある? 共同の本棚という可能性もあるけど、それならリビングか、晧司さんの書斎に置くんじゃないだろうか。わざわざ男性の寝室に置き、女の私を出入りさせるのは不自然。 「不自然といえば……」 あの机。晧司さんには、やはり低いと思う。では……私なら? あの部屋はもともと、私の勉強部屋か何かで……大人になってあまり使わなくなったから、晧司さんが自分のベッドを入れて寝室にしている? それか、私が使わせてもらっているこの部屋が晧司さんの寝室だったけれど、私を静養させるために譲り、自分は隣へ移った。 「部屋が余ってるのに、そこまでする?」 矛盾点は、すぐに見つかってしまう。使っていない部屋があるのだから、私をそ
本をじっくり読むには時間がかかる。私は、気に入った文章を抜き書きしてみたり、感銘を受けた箇所にメモを貼ったりするから、なおさら。自分の本なら直接感想を書き込んでしまいたいくらい、本にのめり込む。一冊の本と、恋をするようにじっくり向き合うのが、天霧鈴という人物の癖らしい。……ううん、私の癖、だよね。 私を天霧鈴だと教えたのは、晧司さん。病院の人にもこの名前で呼ばれたし、保険証などの書類もそうなっていた。 だけど、もしも。病院の人も巻き込んで、私を騙しているとしたら? ミステリーなら、あり得なくはない展開。よほど手が込んでいないと病院の書類なんてごまかせないし、明るみに出たら大騒ぎになると思うけど……私が、何かの事件の被害者で身を隠す必要があるなら、できないことではないのかもしれない。あんな夢も見たことだし……。その場合、私は、騙されているというより、守られていることになる。 この説明で齟齬が生じるのは、晧司さんが最初から私に「リン」と呼びかけていたこと。目覚める前から記憶喪失だと確信していなければ、使えない手だ。 または、よく似た別人。晧司さんの従妹の天霧鈴は別にいるけど行方知れずで――あるいは死んでいて ――私をその人と思い込んでいるか、身代わりにしている。ほかの人に会わせると嘘の世界が壊れるから、会わせないよう閉じ込めた。 「うーん……それだと、七華さんの反応と矛盾する」 私のために見せた涙は、演技にしてはできすぎていた。 考え始めると止まらない。三か月以上、言われるままに受け入れてきたことに、今初めて疑念を抱いている。 私は、どこの誰なのか。 疑いは、歩き始める第一歩。私は今ようやく、自分の頭と心を未来へ向けて動かそうとしている。この探索の旅を、晧司さんは共に歩んでくれるだろうか。それとも、私は栗色の髪のアポロンを頼るのだろうか。
「お帰り、リン。おや、何かいいことがあったようだね」 玄関に出迎えてくれた晧司さんは、私に手を差し伸べながらそんなことを言った。 「ただいま、晧司さん。特別に何かあったわけじゃないけど……ふふ」 言われてみれば、いいことかな? アポロンでディオニュソスな彼との出会い。風貌からは、絵画などで見る太陽神を連想した。理知的な雰囲気や、ロマンの香りも漂わせている。けれど彼の内面は激情でいっぱい。現実的なあらゆる衝動を、容貌で上手に隠している人。私に、湖の底から水面の光を覗かせてくれた気がする。 「私には内緒か? 寂しいな」 「あとで話しまーす。手を洗ってきますね」 洗面所に向かう私の後ろで、晧司さんと七華さんが話していた。 「誰に会った? 春日が言っていた男か」 「はい、間違いございません。地元の青年で、この辺りを散歩で訪れることがあるとか」 「……ではないのだな?」 「見た限りでは……」 あとの方は、よく聞こえなかった。 二人だけの時間が戻ってきて、私は無性に本を読みたくなった。 「晧司さん、お部屋から本を借りてもいい?」 「ああ、もちろん。取れないのがあれば言いなさい」 「はい」 彼はリビングでお仕事。散歩での出会いのことは、まだ話していない。何となく、もうちょっと、心にしまっておきたい気がして。 彼の寝室は、私の居室の隣。大きな本棚から、好みの本を選んで手に取った。何冊か机に置き、また次のを選ぶ。机も本棚も大きくて、寝室というよりは書斎のよう。けれど書斎は別にある。もとは書斎だったところに、ベッドを入れたかのような違和感。机も、晧司さんには低いんじゃないかな……。椅子で調整しているようだけど。 「これも、そのうちわかるのかな」 違和感を覚えるところには、私の記憶が眠っている。無理に起こすことはせず、自室へ戻った。 運んできたのは、神話を含む、様々な昔話の本。謎の青年がもたらしたのは、説明のつかない温かさだけではなかった。本を読みたい。物凄く読みたい。そこから、私の活動範囲が一気に広がっていく予感がある。今日は朝から調子がよかったからそういう時期にきていたのだろうけど、彼を見て、彼と話して脳が刺激されたことは明らか。 またすぐに会えたらいいなと願う、この気持ちは……恋?
「先ほど下の方でお見かけしましたが、わざわざこんな上まで何かご用が?」 七華さんに問われ、男性は穏やかに答えた。 「近くに住んでいましてね。湖まではちょうどいい距離なので、時々足を伸ばすんです」 嘘は言っていないように思う。私は、無意識のうちにそう判断した。 「私たちをご存じなんでしょうか。だって、くノ一って」 私の問いに、七華さんがクスッと笑った。男性は、心なしか目が優しくなったような。 「舞台装置に敬意を表したまでですよ。聞き流してください」 笑いを含む落ち着いた声に、気持ちが和む。彼は歩み寄り、私たちに近付いてきたかと思うと、すっと通り越した。靴を履いていることを計算に入れても、やはり晧司さんより背が高い。彼はそれから数メートル進んで立ち止まり、振り返った。 「いつもは湖の反対側を歩いています。今日は新たなルートを開拓しようとこちらへ来てみたんですが、幸運でした」 「どういう意味でしょう」 七華さんの声には、いまだ警戒心がこもっている。春日さんが話していた「若い男」が彼なら、不審者ではないと一度は判断したはずなのに。 七華さん、何を心配しているの? 「美しい女性に山の中で巡り会う。最高の幸運でしょう。あなたがたは、狸にもあやかしにも見えませんしね」 「泥のごちそうを食べさせられることも、生き肝をとられることもなさそうだと?」 昔話の例を出してみると、彼は眩しそうに目を細めた。 「そういうことです。では、いずれまた」 草を踏むかすかな音。背筋をまっすぐに伸ばし、休日を楽しむ青年にしてはややまじめすぎる印象を与えて、曲り道の向こうへと消えていった。 その日、私の心の底に、言葉にならない温かいものが生まれた。
もどかしい。七華さんに、知っていることを全部話してほしいと迫りたくなる。彼女は、話したい気持ちにブレーキをかけてる。私と共有した過去を、声を合わせて笑った時間を、取り戻したいと願っている。 自分の性質が朧気ながら見えてくると、人の性格や心情にも意識が向く。七華さんが詳細を話さないのは、私をがっかりさせないためだろう。過去を情報として提示しても、切れた記憶の糸を本当の意味で修復することにはならない。 「ありがとう、七華さん」 私も、彼女の手をそっと握った。記憶があってもなくても、素敵なお友達。あなたは晧司さんと私の関係を、続くべき、よいものだと思ってくれているのでしょう。例えば一人っ子の晧司さんが、同じく一人っ子の私を妹のようにかわいがってくれて今日まで来た、それでもいい。切れることのない絆が、あの人との間にあるのなら。 晧司さんの指輪の跡が誰との縁なのか、悩むのはやめよう。記憶が戻ればわかることだ。 私は今、大好きな従兄と暮らしている。うん、大好きで、たっぷりと甘えてきたに違いない。甘やかされて、時々叱られて。目を離すと飛んでいってしまう私を、仕方がないなと困り顔で見守る姿が想像できる。 そんな二人だから、彼の恋も私は応援していたはず。その恋が破れた時、私は彼のために泣いたんだろうか。 過去は見えないけど、ここには今と未来がある。 「ねえ、私……もしも一生記憶が戻らないとしても、晧司さんのそばにいたいな」 「リン、様……」 「泣かないで……。ね、私、いていいんですよね。ずっとこのままでも、あの人のそばに。何でもいい、私にできることをしてあげたいの」 「もちろんです、もちろんですとも」 もらい泣きして、涙を拭き合った。 そこへ、晧司さんのものでも、春日さんのものでもない足音がした。神経が鋭敏になっているせいか、もともとそうだったのか、私は足音を聞き分けることができる。七華さんもハッとして、振り向きながら私を後ろへ隠した。 「山奥に、くノ一が二人。時代劇の撮影現場にでも迷い込んでしまったのかな」 現れたのは若い男性。夏の光を自分の身に吸い寄せるかのように堂々とした立ち姿。快活な声は、どこかミステリ
年の離れた従兄の部下である人。彼女と私は、ある程度親しかったことになる。この距離感からして、それこそ姉妹のように。 七華さんがさり気なくちりばめてくれる、記憶のかけら。まだ、つなぎ合わせるほどの数は集まっていない。 「晧司さんが私を山奥に閉じ込めているのは、それが理由なんでしょうか」 私の行動を恐れてのことだとしたら、辻褄は合う。だけど、従兄に過ぎない彼がなぜそこまで。私はこの世に晧司さんしか、血のつながった人間がいないのだろうか。 「『閉じ込めて』ですか……軟禁状態であることは確かですものね」 そう、軟禁状態。木々の緑も夏の花も、鏡のような湖も気持ちがよくて、大自然に囲まれて健やかな気分になる一方で、自分の正体は霧に包まれて見えない。 ひょっとしたら、私は七華さんの同僚? くノ一的な。だとすれば、かくまわれているのも、彼女と親しいことにも納得がいく。記憶さえ戻れば、また晧司さんのために働ける――みんなでそれを待っている、とか? または……怖い夢が現実だった場合。晧司さんの会社の関係で、何らかの事情があって私が襲われて、罪滅ぼしに大事にされている。この方向は、あまり考えたくはない。ただ、晧司さんの過保護ぶりからいって、相当な目に遭ったのではないかと勘繰ってしまう。「勇敢でまっすぐ」な私が、今はまるで翼を畳んだ鳥のように、彼の腕の中でおとなしく休んでいるんだもの。 「リン様」 七華さんの手が、温かく私の両手を包んだ。つやのある、綺麗な爪。声も微笑みも、思いやりに溢れている。 「大丈夫ですよ。記憶があってもなくても、私たちは絶対にあなたの味方です。ことに社長は……リン様のこととなると極端に走る傾向がありますけど、大切なんです。リン様のことが、何よりも」 「七華さん……」 彼女の、心の奥底まで見通す、それでいて不快ではなく安心できる瞳を、私は確かに知っている。強く励ましてくれた、あれはいつのことだったか――。 ――社長を信じてあげてください。 ああ、またひとつ、記憶のかけら。